加爾基 精液 栗ノ花は異常だ。
今日も日常の所作のように椎名林檎を聞いてる。久しぶりに聞こうと思った。加爾基 精液 栗ノ花を。2003年5月27日に発売されてたんですね。14年か。歳月人を待たず。今日の文章も中身はない。お暇な方だけお付き合い願いたい。
無罪、勝訴を椎名林檎を追いかけてきた私には加爾基 精液 栗ノ花は異常だ。まずタイトルが異常。
【漢字二文字+カタカナ】のセオリーを崩された。
そしてこれまた、ド直球の言葉で官能的表現をしてきもんだと。とは言え、活動休止からの復活一発目のアルバム。たかだかいつも通りのタイトルセオリーから外れたぐらい、CDのアートワークが雰囲気が違うぐらいでは動じるわけにもいかない。
心して待っていた。当時の椎名林檎のネットページを見てやつつけ仕事って曲があるけどこれはやっつけ仕事とは違う曲なのか?高揚した気分を覚えている。
そして発売日にCD買ってみたら、アルバム全部聞くのが辛かった。本当にショックだった。もはや今までの椎名林檎は居ないじゃないか。
なぜ椎名林檎は加爾基 精液 栗ノ花を作ったのか。何を目指していたのか。何を表現したかったのか。リアルタイムではさっぱり思考と思想がついていかない。当時アルバムを聴いた感想は「暗い」「沈む」しかなかった。我ながら、なんという感情表現に対する語彙力の無さ。当然ながらやや負の感情から始まる加爾基 精液 栗ノ花。絶対好き嫌い別れるよね。椎名林檎の作品っていうだけで聞き続けてはいたけれども。
椎名林檎の新しい音源と久々に再会した私が期待に裏切られるあの悲しさ。
あの頃の荒々しいく生々しい椎名林檎はもういない。
私は依存症やモルヒネやメロウが好きだった。
無罪も勝訴もとても良い作品だった。
甘酸っぱい無罪と大人になり始める勝訴。私はその両方を気分によって聞き分けていた。
そこに現る加爾基 精液 栗ノ花。これ、一体いつ聞けばいいのか。しかし椎名林檎は椎名林檎ではないかという葛藤。
嘆いてばかりいた。今でも初めてCDをかけて宗教が流れたことを今でも鮮明に覚えている。
え。一曲目から琴の音色?
ギターかき鳴らす椎名林檎は何処へ。
と思っていたけど。
実際は「加爾基 精液 栗ノ花めっちゃいいよね。」って平気で言うモラトリアム世代。
「あー。やっぱりわからないかぁ。加爾基の音楽性は難しいもんねー。私はいいと思うけどね」って言いだす始末。
当の本人も本当は良くは思っていない。
しかし、建前上椎名林檎の作品を否定するわけにはいかない。
というか当時15の小僧が加爾基 精液 栗ノ花の良さを初見から完全に理解し切れたらどう考えてもおかしい。
とりあえずグレッチで殴って欲しい。
なんのマウンティングだ。
今すぐ無意味な背伸びは辞めろと説教したい。
しかしながら、椎名林檎聞いてるような奴は大体早熟だ。背伸びしたい。背伸びしなくても加爾基の良さに気づく日は必ず来る。作品を消化できる日は来るって言いたい。
今思えば、あんなに歌詞カードをじっくりに見ながらCDをかけてたのは最後のアルバムかも知れない。アーティストの作る音楽を理解したくて、ジャケットを見て、フォントや文字の配列などでアークワークの雰囲気をつかみ、Special Thanksの所まで一文字も逃すことなく歌詞カード眺めながらCDを聞いてた。アーティストを。椎名を。加爾基を理解したい。の一点張りで。
今ではCDを買わなくてもYouTubeがある、Apple Musicがある。歌詞はネットに落ちてる。モノがなくても知れる。利便性が強くていい時代じゃないか。けれども、毎日毎日CDをわざわざプレイヤーに入れて歌詞カード開いて聞き、色んな思考を張り巡らせるあの感触は紛れもなく私にとって良い経験だった。
故に加爾基で離脱しないでずっと好きなのかもね。離脱した人も多いでしょう。新たな椎名林檎の女性としての性がここにはあった。今では加爾基 精液 栗ノ花は間違いなく名盤だと思ってる。最初から最後まで素晴らしい。歌詞も音色も表現の仕方がすべて素晴らしい。胸に刺さるワードが多い。
「隣の芝 青く見えたら出来るだけ睡るのさ」とか「頭が有れば要は簡単に片付いて」とか行動の心理を突くような言葉が好きだ。「憂き世に居た堪れない悲劇が溢れたとしやう 大人だから今日はまう唄ふ位 笑う位許してね 守るものは護るさ」とかとても好きだ。
暗くて明るい真理を描写する椎名林檎は表現方法を変えただけ。ただ、それだけ。
なぜ椎名林檎は加爾基 精液 栗ノ花を作ったのか。はこちらのブログを読むと宜し。りゅーまちさんのブログは私とは違う角度で書いております。
レディオヘッド(トムヨーク)論を唱えてるこちらもオススメ。
今だからこそ思うことだけど、無罪と勝訴であれだけ売れていきなりスタイルを変えて、自分が良いと思う感性について来れないようなリスナーは要らない。みたいなスタンスこそが私が一番求めていた『荒々しい椎名林檎』だとね( 'ω') 最高だね。
今日も聞いてる。椎名林檎の勝訴。
朝起きたら雨が降っていたから。
肌寒くて、間も無く冬が来るって感じたから聞き出した。勝訴ストリップは、なんとなく寒い季節が似合う気がしたから。1曲目から順番に聴きながらダラダラとブログを書くとする、中身はない。お暇な方だけお付き合い願いたい。
勝訴ストリップは2000年3月31日にリリースされた。もう17年前だ。リアルタイムで聞いてた頃いったい私は何をしていただろうか。多分鼻を垂らしていた。それくらいまだ青みがかった年齢だった。時の流れは無情。今、鼻を垂らしていたら間違いなく自己管理できていないと見なされる。というか対人する人、全てに引かれる。
虚言症から始まり依存症で終わるこの勝訴ストリップ。このアルバムは『切ない』そして『やりたいことと若々しさ故に大人に対しての反抗感』がぎゅっと詰まっているようなアルバムだなぁ。まぁ、本人が声ヴォイス:椎名“マゾヒスト”林檎小娘って仰ってるぐらいですしね。今でも良いアルバムだなぁと感じるからやはり椎名林檎最高ってなる。名曲多いよね。
勝訴ストリップでシングルカットされて。『ギブス』と『罪と罰』、『本能』売れるには理由があるよね。EMIの力も凄いと思うが本人のセンスが凄い。今聞いても良い。
『don’t U θink? i 罠 B wiθ U 此処に居て ずっと ずっと ずっと 明日のことは判らない だからぎゅっとしていてね』
から
『愛してる独り泣き喚いて 夜道を弄れど虚しい
改札の安蛍光燈は 貴方の影すら落さない 』
『淋しいのはお互い様で 正しく舐め合う傷は誰も何も 咎められない 紐 解いて 生命に 擬える』
までだ。
ギブスから罪と罰までの曲数2曲。圧倒的な成長感を否めない。
やはり椎名林檎凄い。
とわ言えどもギブスはいい曲だ。
『don’t U θink? i 罠 B wiθ U 此処に居て ずっと ずっと ずっと 明日のことは判らない だからぎゅっとしていてね』
なんて言われたら今でも心がぎゅっとなる。切ない。10代じゃなきゃ書けないし感じられない感覚。
青い春が爆発している、けしからん。
10代の男女の関係は直ぐに『絶対』や『一生』など使うし、それを信じてる。筆者だってそうだった。しかしながら椎名林檎もそう言ってるぐらいだし、なんら恥ずかしくもない。今ではどうだ。間違いなく発言に『絶対・一生』など使わない。絶対や一生など無い。故にそれがわかるのは結果論だ。発言には責任が発生する事を知り、リスクマネジメントを覚え、傷を抱えないようにするからだ。安易な発言は痛手を負う。何があったかは聞かないでほしい。
当時はギブスにとても素直に共感していた。今では青春を懐かしむように楽しめる。ギブスは二度美味しいのだ。名曲だ。
問題は罪と罰だ。
『愛してる独り泣き喚いて 夜道を弄れど虚しい
改札の安蛍光燈は 貴方の影すら落さない 』
どうした。完全に男女の関係終わってるよね。もしくはギリギリ保っているのか。2曲前まで、とても素直に素敵に愛情表現して居たのにどうした。限りなく人生経験積んで大人になってるよね。罪と罰作った時、椎名林檎19.20ぐらいでしょう?凄い表現力。罪と罰は大人になった今でも素直に共感できるから凄い。酔っ払って聞くとなお良い。
結果として今日わかった事は酔っ払って罪と罰を聴くと、『マジで名曲過ぎる…あの若さでこの曲作った椎名林檎才能あり過ぎ…最高だ』って事でした( 'ω')フォオオオオヲサスゥゥゥゥゥアサノヤマテドォォォォォリィィィィ。うん。最高( 'ω')
— yung (@yunglog0) 2017年10月11日
先日もフォオオオオヲサスゥゥゥゥゥアサノヤマテドォォォォォリィィィィ↑↑って駅のホームで歌いそうになってた。危ない。歌っていたら社会的に終わっていただろう。危険性が強い。
本能もまた名曲だ。本当に格好が良いって当時も思って居たけど、今でもそう思う。
痛みと深みと真理といろんな感情が含まれてるよね。約束が要らない事から歴史の上に言葉が生まれた理由を解いてしまってるから。果たされないならコミュニケーションツールさえも要らないと。なんというエゴイスト。どう考えても言葉は発展の為に必要だと思ってるけと。この頃から椎名林檎は哲学者なの?やさしい哲学なの?きっと正当な恋仲の関係性じゃ無いからこんな歌詞なんどろうけどさ。力強さと弱さが交わってる繊細な時期にしか感じられないような歌詞で体幹を上手に表現できる椎名林檎凄い。そしてサビが生々しい。
とりわけ目立つのはこの3曲。だけどこのアルバムは『虚言症』も『浴室』も『月に負け犬』も『病床パブリック』も『依存症』も思入れが強くて書きたいことが沢山ある。上げて居ない曲も勿論好きだし。全部書いたら日が暮れる。
なんというか。勝訴ストリップもまた【生々しい女性としての性】を歌ってるよね。其処がとても素敵に見える。生々しさこそがこの頃の椎名林檎の最大の特色だったのかもね。
『既にもう女として生まれた才能は 発揮しているのだけど 脱がせてほしい』
って誘い文句。最高にして最強だと思う( 'ω')
今日も聞いてる。椎名林檎の無罪。
今日聞いてる。椎名林檎を。いつもはテーマありきで文章を書くのだが今日はだらだらと今頭にあることをグダグダに書きたい。そんな気分であるし、時間があるならお付き合い願いたい。
ほぼ毎日聞いているであろう椎名林檎。今も飽きずに聞く。活動の長い彼女だからこそ、今となってはその日の気分でそこはかとない気分も対外気分に合う曲が見つかる。中目黒駅にいるときは『ギャンブル』。何が悲しいかわからないときは『落日』。新宿で豪雨であれば『群青日和』のように。いつも通り椎名林檎を再生していたら『正しい街』が流れた。とても悲しい気持ちになって。そのまま無罪を聞き直すことにして、今この文章を作っている。
『無罪モラトリアム』
もしかしたら、恥の多い人生の中で一番で再生回数が多いCDではなかろうか。
始めていたのは15年ほど前だった。完全に鼻垂れてるような小僧の時期だ。
鼻を垂らすか。椎名林檎聞くか。もしくは椎名林檎を聞きながら鼻を垂らすか。
いずれにせよ。最も甘酸っぱい年齢の時期に聞いてた無罪モラトリアム。想い出しか詰まってない。聞くと色々思い出す。曲を聴いて記憶が戻されるあのシステム。便利な時もあるけど死ぬ程恥ずかしい記憶も蘇る。完全に鼻が垂れてたなぁ。無罪モラトリアムの全てが好きだった。ジャケット。アートワーク。歌詞。歌詞のフォント。曲順。曲調。声。すべて好きだった。正しい街からモルヒネまで好きだった。一言で言うなら切ないよね。このアルバム。全然一言で言える表せるような品物ではないのだけどもさ。
不意に流れてくる正しい街でぼんやり考えていた。
【君が周りを無くした。私はそれをを無視した。】
これは
君は私だけしか、見ていなくて周りもの(人、環境など)も現実も見ないようにしていた。
私はそんな君の思想を、理解していたけど見て見ぬふりしてた。
椎名林檎/目抜き通りについて解く
久しぶりに椎名林檎が動き出すと速報が届いて心が躍った。
そして2017年4月20日に【目抜き通り】が発売された。
今日はそんな話を個人の主観で少々( 'ω')
目抜き通りの個人的な感想
イントロから椎名林檎全開だった。
ネコさん色出ており大人の曲調だ。銀座の雰囲気もバッチリハマっている。
がしかし。あまりにも雑念が入りすぎて個人的にはそんなにグッときていない。
曲は素敵なのに。雑念が邪魔をする。
雑念① トータス松本という選択
トータス松本は誰もが知っている歌手だ。
好んでウルフルズなどは聞かない私でも知っている。
銀座の街と言えば洗礼されている大人が集まる街だ。椎名林檎やトータス松本の年齢の方が歌うのはとっても良く似合う。ビシッとスーツを決めて笑顔素敵に歌うトータスさんには好感を持てる。
だがしかし、デュエットしてハーモニーが合うかどうかというと。
そんなにグッとはこなかった。
純度100%の椎名林檎の曲を聞きたかった。
雑念② GINZA SIXのテーマ曲として
GINZA SIXは銀座エリア最大の商業施設。東京・銀座六丁目10番街区に2017年4月20日(木)オープンした。GINZA SIXのプロモーション依頼を椎名林檎にはしたのはわかる。だって最近の椎名林檎は上品すぎる女性となり、【銀座】という街が似合う。そして彼女もプロだから結果として目抜き通りの曲は、音楽面からしても話題となりプロモーションとして成功を収めたであろうし、バッチリ雰囲気のある曲に仕上がっている。
だがしかし、椎名林檎は元々は【最近は銀座で警官ごっこ〜】と茶化していた子だ。
むしろそもそも【新宿系自作自演屋】ではなかったのではなかろうか。がっつり電通の広告クライアントとして依頼受けているではないですかい。
純度100%の椎名林檎の曲を聞きたかった。
雑念③ 寧ろこれは通過点にしか見えない
目抜き通りの曲の印象は【キャバレー感】だった。これは林檎博でも感じたことだった。前々からキャバレーをやりたがっている椎名林檎のプロジェクトの一部を見させていただけてる気持ちになる。彼女は有言実行の人であろうから。
東京オリンピックの時にキャバレーを開催するのではないか。と睨んでいる。
そのための実績を作るための一つに感じるのだ。
結論 目抜き通りは素敵な曲。だけど・・・
目抜き通りは椎名林檎感もあり、銀座の街に似合う曲であり、プロモーションとしても成功し、来るべきキャバレーに向けても実績を作り。
とても素敵なのですが。
やはり愛好家としては純度100%の椎名林檎の曲を待っている。
長く短い祭のような純度100%の新曲発表を待っている( 'ω')
椎名林檎の正しい呼び方は。
呼び名は自由だ。
好きに呼んだっていい。
相手がいて私がいて、関係性があるから呼び名がある。
どうも、初めて呼ばれる方も何度か訪問されてる方もどうぞお付き合いください。ゆんぐと申します( 'ω')
存在を知ってから、はや15年ぐらい、ずっと椎名林檎の愛好家を続けている。単純に彼女の活動が目を離せないし、彼女の曲が、振る舞いが、全てが好きなのである。
今回は好きすぎてもう一度呼び方を考えるようになった。そんな話である。
椎名林檎の呼び方は様々ある。
椎名林檎、林檎、林檎ちゃん、林檎嬢、林檎様、椎名林檎さん、裕美子・・・・沢山ある。でも私は『椎名』と呼ぶ。それには理由がある。
『椎名林檎』という呼び方
前は私も椎名林檎と呼んでいた。椎名林檎って凄いキャッチーだし愛くるしい。椎名林檎と呼んでて困ったことはない。必ず伝わる。だがしかし、ふと思った。フルネームで呼ばれることはあまりにも硬すぎるし、距離がある。
例えばである。これを呼んでるあなたの個人名が『山田花子』だとして第三者があなたの話をしていると仮定する。
と言われたらとても距離を感じないだろうか。そもそも自分の名前をフルネームで呼ばれることはあまりない。フルネームで呼ばれると距離を感じるものだ。これだけ椎名林檎を応援してるのに距離もクソもないだろう。私は椎名林檎に近づきたいのに距離を作っていたのか!!ふと思った。
『林檎』という呼び方
誰かと椎名林檎の話をしている時に
「林檎さぁ。林檎の。最近の林檎が〜」なんて言い出したらアウトだと思っている。椎名林檎は私の恋人ではない。むしろこちらが一方的に知って好きになっている。それなのに下の名前で呼んでたら、一方的に距離を縮めている危ない人になる気がする。考えて欲しい。あなたにお会いした事がない人があなたの下の名前で話していたら気持ち悪くないだろうか?少なくとも私は嫌である。故に『林檎』なんて呼び捨てにできない・・・
『林檎ちゃん』
愛好家の中で一般的に多い気がするのが林檎ちゃん。
わかる。しっくりくるし、ちゃん付けにしたくなる可愛さを持ち合わせている。特に女性がよく林檎ちゃんと呼んでいる気がする。だがしかし、私と椎名林檎は友達ではない。友達になりたい。とは切に願っているが、友達ではない。故に友達感覚で「林檎ちゃんのアルバム聞いた〜?」「最近の林檎ちゃんいいよね〜」なんて軽々しく言えない。むしろ友達というよりも崇めているに近い椎名林檎をちゃん付けなんて言えない。椎名林檎を尊敬している故にちゃん付けなんて言えない・・・
『林檎嬢、林檎様』
この呼び方もわかる。私も林檎嬢と呼んでいた時期はある。椎名林檎は唯一無二な存在であり、この上ないアーティストで尊敬しているからこそ呼ぶ林檎嬢、林檎様と呼びたくなる気持ち。わかります。だがしかし、椎名林檎は私の神様でもなければ私の王女様でもないのだ。それに気付いた時には呼べなくなってしまった・・・
『椎名林檎さん』
椎名林檎さん。うん。丁寧な呼び方だ。だがしかし、一気にファン感がなくなる。椎名林檎さんって呼ぶだけで一気に椎名林檎に興味の無い一般の人見たくなってしまう。私は椎名林檎のファンである故に呼びにくい。そして、文字数が長い。故に呼べない。
『裕美子』
はい。アウトー。いくらファンであっても本名で呼んだらアウトー。椎名由美子と椎名林檎は同一人物であることはわかるが、使い分けてる事ぐらいは察するべきだし。通ぶって本名で呼ぶなんてアウトー。スリーアウトチェンジ。退場ッ!!
『椎名』
最近、私は椎名林檎を椎名と呼ぶ。
対象を呼び捨てとする事で、林檎ちゃんと呼ぶ勝手な親近感や林檎嬢という崇めている呼び方でなく「近すぎず遠すぎずの距離感であり椎名林檎のアーティストとしての部分だけと向き合っている」という意思表示のなのだ。親しみすぎず、崇めすぎず、椎名林檎はとても好きでありながらさらりと呼ぶ事でちょっと通っぽいと思っている。
思っている。
・・・思っていた。
むしろ好きなのに呼び捨てで、自分より年上の椎名林檎さんを椎名って苗字の呼び捨てで呼んでいたらとっても生意気じゃ無いか?と思ってきたところ。
ああもう、私は彼女をなんて呼べばいいんですかね。
こじらせすぎである。
好き過ぎるが故に好きなアーティストの呼び方一つでこんなにも悩んでる私はこじらせすぎである。
今日も平和である( 'ω')